『室町幕府』と『鎌倉幕府』の違い
鎌倉幕府と室町幕府は、日本史において武家政権を担った重要な存在です。どちらも武家による政治体制を確立し、日本の歴史に深い影響を与えました。
しかし、両幕府は成立の背景、政治体制、そして歴史的意義において多くの違いを見せます。
今回は、これらの違いを詳しく比較し、それぞれの幕府が日本の歴史にどのような足跡を残したのかを考察していきます。

成立の背景
- 鎌倉幕府
源頼朝が平氏政権を倒し、武家政権を樹立。武家による初めての全国的な統治体制を確立しました。 - 室町幕府
後醍醐天皇による建武の新政が失敗に終わり、足利尊氏が武力をもって政権を掌握。鎌倉幕府を倒し、新たな武家政権を樹立しました。
鎌倉幕府は、武家による政治体制を初めて確立した点で画期的な出来事でした。
一方、室町幕府は、鎌倉幕府を倒すという内乱を経て成立した点で、その性格が大きく異なっています。
鎌倉幕府は、武家と朝廷との関係を規定し、武家社会の基礎を築きました。
一方、室町幕府は、建武の新政の失敗という歴史的背景を背負っており、政治的な不安定さを抱えながらスタートしました。
政治体制
- 鎌倉幕府
執権北条氏が実権を握り、将軍は傀儡化。合議制によって政治が行われました。 - 室町幕府
室町幕府は、将軍の権威が相対的に弱く、守護大名や管領などの有力者が勢力を拡大。中央集権的な政治体制は確立されませんでした。
鎌倉幕府は、将軍を頂点とする武家政権でした。将軍は、御家人を統率し、朝廷との関係を調整する役割を担いました。また、執権と呼ばれる北条氏が実権を握り、将軍を補佐しました。鎌倉幕府の政治体制は、将軍と執権の二元的な構造が特徴でした。
一方、室町幕府は、鎌倉幕府と比較して政治体制が複雑でした。将軍は、名目上の最高権力者でしたが、実際には室町幕府は守護大名と呼ばれる有力な地方豪族の力が強大でした。
守護大名は、自らの勢力を拡大し、幕府の権威を弱める傾向がありました。室町幕府は、将軍と守護大名の対立が常態化し、中央集権的な政治体制を築くことが困難でした。
社会構造
- 鎌倉幕府
武士階級が確立され、荘園制度が発展。武士による社会が形成されました。 - 室町幕府
武士階級の多様化が進み、商工業の発展に伴い都市が成長。社会構造が複雑化しました。
鎌倉幕府では、武士階級が社会の中心的な地位を占めていました。武士は、土地を支配し、農民から年貢を徴収する権利を持っていました。また、鎌倉幕府は、荘園と呼ばれる私有地を保護し、荘園領主の権益を保障しました。
一方、室町幕府では、守護大名が地方の有力な勢力として台頭しました。守護大名は、国ごとに任命され、その地域を支配する権限を持っていました。しかし、守護大名は、中央の命令に従わず、独自の勢力を築こうとする傾向が強まりました。
文化
- 鎌倉幕府
仏教が発展し、鎌倉仏教が興隆。武士道精神が確立されました。 - 室町幕府
華道や茶道など、日本の文化が大きく発展。室町文化と呼ばれる独自の文化が花開きました。
鎌倉幕府時代には、武士道が確立され、武家文化が花開きました。武士道は、忠義、名誉、武勇を重んじる道徳規範であり、武士の行動規範として広く浸透しました。また、鎌倉仏教が興隆し、武士の精神世界に大きな影響を与えました。
室町幕府時代には、禅宗が武士の間で流行し、茶道、花道、和歌などが発展しました。これらの文化は、武家だけではなく、町人にも広がり、日本の文化に大きな影響を与えました。
歴史的意義
- 鎌倉幕府
武家政権の基礎を築き、日本の歴史に大きな転換をもたらしました。 - 室町幕府
戦国時代への過渡期となり、日本の社会構造に大きな変化をもたらしました。
鎌倉幕府は、日本の歴史において初めて武家政権が成立したという点で、非常に重要な意味を持ちます。鎌倉幕府の成立は、日本の政治構造を大きく変え、武家社会の基礎を築きました。しかし、鎌倉幕府は、元寇という外敵の侵入や、内紛によって衰退し、室町幕府にその座を譲りました。
室町幕府は、鎌倉幕府に引き継いだ武家政権でしたが、中央集権的な体制を築くことができず、守護大名の勢力拡大を食い止めることができませんでした。室町幕府の権威が衰退するにつれて、各地で戦国大名が台頭し、戦国時代へと突入していきました。
『室町幕府』と『鎌倉幕府』の共通点
室町幕府と鎌倉幕府は、日本の歴史において武家政権を樹立し、長い期間にわたって政治の中心となった存在です。
両幕府は、政治体制や社会経済、そしてその後の動向など多くの点で共通点を見ることができます。

武家政権としての共通点
- 武家による政治の実現
最も大きな共通点は、武力を持った武士階級が政治の中心となり、天皇の権威を借りて天下を掌握したことでしょう。鎌倉幕府は源頼朝が、室町幕府は足利尊氏がそれぞれ武力で朝廷を圧倒し、武家政権を樹立しました。 - 征夷大将軍という称号
鎌倉幕府・室町幕府ともに、征夷大将軍という称号を幕府のトップに与えました。征夷大将軍は、朝廷から任命される形をとることで、武家政権が朝廷の権威を借りて、その支配を正当化しようとしたことを示しています。 - 公武合体
両幕府は、武家政権でありながら、朝廷との関係を重視し、公武合体の体制を築きました。天皇の権威を借用することで、武家政権としての正当性を確保し、民衆の支持を得ようとしたのです。 - 荘園制の継承
鎌倉幕府も室町幕府も、荘園制という土地の所有形態を継承しました。荘園とは、武士や寺社が私有地として支配していた土地であり、農民は荘園領主に年貢を納める義務がありました。荘園制は、日本の社会経済構造に深く根付いており、両幕府ともこれを否定することができませんでした。
政治機構における共通点
- 御家人・守護
鎌倉幕府の御家人と、室町幕府の守護は、いずれも武家政権を支える重要な存在でした。彼らは、武力をもって領国を支配し、年貢を徴収することで経済的な基盤を築きました。 - 幕府と地方の二重構造
両幕府は、幕府と地方の二重構造を持つ政治体制を確立しました。幕府は、中央集権的な政治を目指しつつも、地方の有力な武士の勢力を完全に抑え込むことができませんでした。 - 軍事力による統治
両幕府は、軍事力によって全国を支配しました。武士は、武力による威嚇や鎮圧を繰り返すことで、地方の民衆を支配下に置きました。
社会経済における共通点
- 農業の重要性
両幕府の経済は、農業に大きく依存していました。年貢は、武士階級の経済的な基盤となる重要な収入源でした。 - 商工業の発展
鎌倉時代から室町時代にかけて、都市の発展とともに商工業も活発化しました。貨幣経済が浸透し、流通が活発化することで、社会は大きく変化しました。 - 文化の保護
両幕府は、仏教や文化を保護し、発展させました。寺院や神社は、政治や社会の中心的な役割を果たし、文化の発展に貢献しました。
衰退の共通点
- 地方勢力の台頭
両幕府は、いずれも地方勢力の台頭を抑えきれずに衰退していきました。守護大名や戦国大名は、次第に幕府の権威を無視し、独自の勢力を築き上げていきました。 - 財政の逼迫
両幕府は、財政的な困難に直面しました。年貢の徴収が滞り、軍事費が増大する中で、財政は逼迫し、幕府の権威は低下していきました。 - 内紛の激化
両幕府は、内部の対立が激化し、権力闘争が繰り返されました。将軍家の後継問題や、有力な守護大名間の争いが、幕府の安定を脅かしました。 - 外患の脅威
鎌倉幕府は、元寇という外からの侵略に直面しました。室町幕府は、応仁の乱という内乱によって国土が荒廃し、その後も戦国時代と呼ばれる動乱の時代が続きました。両幕府とも、外敵や内乱という脅威に常にさらされ、その存続が危うくなっていました。
『室町幕府』と『鎌倉幕府』の違い・共通点まとめ
鎌倉幕府と室町幕府は、それぞれ異なる時代を背景に成立し、異なる政治体制や社会構造を持っていました。
鎌倉幕府は、武家政権の基礎を築き、武士による社会を確立しました。一方、室町幕府は、中央集権的な政治体制が崩壊し、戦国時代への過渡期となりました。
また、両幕府は日本の歴史において武家社会を形成し発展させ、中央集権的な政治体制を確立しました。しかし、家臣団の統制や地方支配の難しさ、財政問題など、数多くの課題を抱え、最終的には滅亡という道を辿りました。
両幕府の興亡は、日本の歴史に深い影響を与えました。武家社会の形成、荘園制度の変化、都市の発展など、中世日本の社会構造は、鎌倉幕府と室町幕府の政治の下で大きく変貌しました。
両幕府の経験は、後の日本の政治体制に大きな影響を与えました。江戸幕府は、鎌倉幕府と室町幕府の教訓を踏まえ、より安定した政治体制を築こうと試みました。

天下統一の凄さと難しさが、この2つの時代を学ぶことによってより分かるな…
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